満開の桜を見ると、君の顔の痣を思い出す。
毎年のように「生きていたら…」と年を数えていたが、成人となってからは数えることはなくなった。
永遠に見ることのない晴れ姿の君を勝手に想像して、桜の木の下で手を合わせる。
花びらが、ひらひらと舞い、君のおどけた笑い声が聞こえるようだ。
どうして、あの時、気付かなかったのか。
児童虐待防止法は、すでに施行されていた。
通告義務がある。
他人事だった。
まさか、こんなに身近で。
あの時、気付いて通告をしていたら、君は助かったのか?
あの時の君は、眠たかったのではなく助けを求めることを諦めていたのか?
頭を撫でようとすると、体を強ばらせたのは…?
私が今も君を思い手を合わせることを、あの人たちは知ることはない。
のうのうと生きているのだろうか。
…そう考える自分に、心穏やかでいられなくなるときがある。
私はこの仕事に戻るときに「自分が救われるために復帰することは許さない」と自らを戒めた。
その気持ちは今でも変わらない。
今回のコロナ禍で、家族の繋がりを強く感じた家庭ももちろんあると思う。
一方で、見えづらい虐待が起こっているのでは、と心配をしている。
杞憂ならば、どんなに良いか。